私の青春

私の青春はここから始まりました。

大学行って早く田舎から抜け出したい!広い世界を観たい、都会に憧れた中学校三年時、進学高校を受験しようと勉強を頑張っていました。

大晦日合格祈願で訪れた亀岡文殊、絵馬に「興譲館高校合格」と書こうと思ったらなんと、肝心の「興譲館」が書けず、とっさに思いついた「米沢中央高校特別進学科合格!」と書きました。

これが運命!今となっては米沢中央高校に入って本当に良かった!心から思えます。

高校時代は最初の一日だけ憧れのサッカー部に入って練習したが、中学校からサッカーやっていた奴には敵わない、と直ぐに方向転換。

小中とやっていた野球部に所属しました。

昔から常にポジティブで切り替えの早さが持ち味でした。

高校時代は特進と運動部、そして高畠町から米沢まで自転車通学を三年間続けました。

この辛く苦しいハードな経験が私の根性を芯から鍛えあげました。

今でもどんな困難に打ち当たっても、高校時代のこの経験に比べたらなんとも思わない、そんな「強い自分」を作り上げる事が出来ました。

死ぬ程受験勉強を頑張り、念願の神奈川大学経済学部経済学科に進学する事が出来ました。

夢の都会生活の始まり始まり。

しかし田舎者の私が思い描いていた大学一年生の都会生活は非常に厳しいものでした。

大学よりも渋谷バーテンダーのアルバイトの方が面白くて、すぐに学校に行かなくなっちゃったのです。

なんと一年目で挫折、大学を辞める決心をし、退学届を持参し学生課から親に報告したら、「待て!取り敢えず休学届けにしろ!」と叱られ、直ぐに方向転換し休学届けを出しました。

そこから一年間中目黒の洋食屋さんでコックをし、その間に調理師免許も取得、辛い見習い経験を乗り越え、心を鍛え上げ直した私はバージョンアップし大学に復学しました。

大学に戻ってからは、大好きな浜田省吾が所属していた軽音楽部でバンドのボーカルとして活動する傍ら、ローラースケートサークルにも所属した私は、練習を重ねてムラサキスポーツ専属プロスケーターとして雑誌やテレビでの仕事も頂けるようになりました。

当時の国民的アイドル 「光GENJI」とミュージックステーションで共演させて頂いた経験は私の宝物です。

ロンドンミュージカル「スターライトエクスプレス」の世界オーディションに見事合格し、本格的にプロのミュージカル俳優として活動、横浜アリーナや大阪城ホールなどのビックな会場の全国ツアーに参加、ミュージカルでは川崎麻世さんが演じていた「新幹線ハシモト」の役を頂く事も出来ました。

ミュージカル後は、テレビ朝日系「アイドル共和国」でSMAPとレギュラー共演も果たしキラキラしたアイドル時代を過ごしました。

そんなアイドル時代後は振付師、舞台プロデューサーとしてエンターテイメントの世界で活躍させて頂き、ふるさと山形に帰郷後は、プロとして活躍した経験を生かし、地域を元気にしたい!みんなを笑顔にしたい!その思いでミュージカルアーティスト「加藤マチャアキ」が地元デビュー。

山形県内は元より全国でシンガーソングライター&ダンサー&ローラースケーター&ラジオパーソナリティー&高畠のラーメン屋のおやじとして様々な活動をしています。

今、コロナで大変な時代ですね。私もほとんどのイベントがキャンセルになり歌手としての活動が出来なくなりました。

実家の高畠のラーメン屋はやっと営業再開し毎日ラーメン屋のオヤジとして頑張っています。

ステイホームで家族と一緒に居る時間が増え、三人の子供たちとは毎日公園で様々なスポーツをしながら身体を鍛えています。

これから始まる新しい時代に向けて工夫し準備しながら、家族みんなに感謝、今まで支えていただいた皆さんに感謝しながら 人生後半戦を楽しんでいきたいと思います。

「為せば成る」 どんなことでも強い意志を持ては必ず成就する

一緒に乗り越えていきましょう!

加藤マチャアキ

 

『びだびだ山形』

   

1回、美術系大学合同進学相談会『びだびだ山形』を開催しています。

 

大学の合同進学相談会ですから、いくつかの大学がブース出展していて、高校生がそれぞれのブースで受験の相談をする会、ということは想像して頂けるかと思います。なかでも「美術系」という分野、いわゆる「美大」に限定した進学相談会というところが最大の特徴です。

なぜこんな相談会が必要なのでしょうか。

まず、美術の常勤の教員がいる高校が少ない、という状況があります。

少子化によって学校規模の縮小が進んだ現在、山形県内にあるなかの44%ほどの高校にしか常勤の美術科教員が配置されていません。つまりは、半数以上の高校が美術・デザイン分野への大学進学を希望する生徒に対して常時的確なアドバイスを授ける機能を有しておらず、情報収集の段階から生徒個人の努力に委ねられている、と言えるのです。

加えて、そもそも美術やデザインの学びに対して、「美大を卒業しても就職できない」、「食べていけない」という誤解が根強く存在します。

実際の社会には、広告・工業デザイン・建築・アニメ・イラスト・ゲーム・映像などなど、美術系の大学で学び得る力を生かせる仕事は多様に存在します。しかし、特に常勤の美術教員がいない高校では、進路希望の変更を求められるという「親切が過ぎた指導」がなされてしまいがちで、残念ながら生徒がこの分野に進学することを前向きに考えにくいのです。

さらには、美大の入試では実技試験が課せられることが多く、デッサンなど実技の訓練には時間を要します。描き方を教わって「ハイ・上達しました!」といくものではありません。描いては直して、問題点を分析、あるいは指摘され、少しずつ身につけるしかないものなので、どうしてもある程度の長い時間がかかります。ゆえに、情報収集となればなおさらのこと、出来るだけ早くに準備を始めた方がいいことになります。

以上のような状況から、『びだびだ山形』を開催しています。毎回、来場者アンケートには「知らなかったことをたくさん知ることが出来た」という生徒・保護者の喜びが寄せられます。それまでほとんど知らなかった魅力を多く知り過ぎたギャップで泣き出す生徒もいました。

 

例年10を超える大学がブース出展をしてくれています。これだけの数の美大を比較して見られる機会はなかなか無いと思います。近い将来、進学を考えている中学生や高校生、その指導にあたっている先生たちに、ぜひ足を運んでもらいたいです。    

 

 

ローカル線プロレス

ローカル線プロレス!

 

走行中の鉄道車両内でプロレスの試合をするというイベントを201574日、おそらく間違いなく世界で初めて行い、以降5回継続して開催しています。舞台は置賜地方の22町を走るフラワー長井線。限定の観戦チケットを購入頂いた“乗客”が乗り合わせた貸切車両のなかに、みちのくプロレス所属選手を中心としたプロレスラーが次々に入場してきて多人数参加形式の試合(バトルロイヤル)を行う、という内容です。

 

立ち上げのきっかけは、ある先輩との取り留めのない雑談。『DDTプロレスリング』というプロレス団体が、いわゆる体育館にリングを設営して試合を観せる通常のプロレス興行のほかに、本屋・キャンプ場・工場等での“路上プロレス”を展開している状況を踏まえて、この先輩が言ったのです。

「………でも、電車ン中はまだやってないよなー。おい、みちのくプロレスとフラワー長井線に提案しろ!」 

まさに“無茶ブリ”です。実現出来るのであればそれは面白くなるに違いないと感じつつも、そのときは鉄道会社が許可してくれるとはとても思えませんでした。

 

この無茶ブリ構想を、当時長井市の地域おこし協力隊を務めていた渋谷くんにダメで元々という思いで話して約1ヶ月、渋谷くんから電話がかかってきました。

「山形鉄道(フラワー長井線運営会社)から許可取れました!」

「えぇ??」話した本人が耳を疑いましたが、とにかく企画が動き始めました。

 

「限定50席のチケットを販売予定」とネットで流したところ、全国から問い合わせが殺到。希望者が50人を軽く上回る勢いだったため、抽選で購入してもらうことに。当日は、乗客に加えて、全国紙や一般の週刊誌まで20社を超える取材陣も乗り込んだなかで10人のプロレスラーが闘い、のどかな田園を走るローカル線の車内がまさに熱狂的な空間となりました。列車内での試合の午後、長井駅前にリングを設置しての屋外興行も行って、沿線地域の方も数多く観戦に集まってくれました。

 

プロレスファンやマスコミの反応は想定できていたことですが、意外に感じたのが準備を進めるなかでの地域の方の声でした。

「こんな話題になることを、長井線に持ち込んでくれてありがとう!」

自分は沿線下ではない山形市で生活してきたので、存在は知っていたもののそれまでフラワー長井線に乗ったことはなく、イベントに向けて地域の方たちと関わるなかで路線の歴史や現在抱えている問題を少しずつ理解していきました。

 

少子高齢化・人口減少、車社会、沿線22町によって異なる路線の重要度。産業構造・雇用とも絡み合い、地方都市の公共交通の維持が困難な時代であること。

問題がそう簡単には解決を図れない難しさをもっていることを認識するのと並行して、ある考えからこのイベントの継続開催の思いを強くしました。

 

それは、問題の解決や改善のためには、沿線地域で生活する人たちがフラワー長井線に関心を持つことがまず必要であり、『ローカル線プロレス』は、肩肘を張った政治運動としてではなく、楽しみながら自然に関心を持つ機会になり得る、という考えでした。

 

以後毎年、関心の高まりを実感しながらこれまで5回開催してきました。

この2020年は新型コロナウイルスの影響で開催は難しそうですが、また必ず、開催したいと思っています。

 

ローカル線プロレス実行委員会 喜早    洋介